てんしの自由帳。

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自分の気持ちメモ 。

 

読まなくていいです。

 

話すよりも書くことのほうが好きというのは、まず話す相手がいないこと。もっとそれ以前に話そうとしていた内容全部忘れてしまうこと。だからいつも人と話すときは適当なことしか言えない。本当は話したいことが山ほどあって脳内でいつも練習しているけど相手を前にするとどうしてもその通り離せなはぜくなってしまって、どうでもいいことばかり話してしまうのである。次に、私の話を聞いて相手は一体どうなるのかということを考えてしまうと自分の話などしても仕方ないとなってしまい、自分の話をすることが億劫になってしまう。もう本当はそんな些細なことで悩んでいないのに、いつまでも小さいことでくよくよなやんでいるんだな死ねと思われていることが多々ある。また、大きい重たいことがあるとそれだけに思考を専念しているつもりが、どんどんどん今までまぁ、そんなこともあるよね、人それぞれだよねと誤魔化してきた怒りがふつふつと湧き上がってきて、しまいにはもう一体全体何が悲しいのか、何に怒っているのか、自分でもよく分からなくなるのである。そのことを誰かに伝えたい、今自分がどんな気持ちなのかを伝えたい、でも伝えたところで相手にとってなんの利益にもならない、むしろ不快にさせるだけであるのなら話すことは無論許されない行為なのである。だから適当に過ごしておこう。ちなみにこの文章を会話風になおして私はもう脳内で6回シュミレーションを行っていた。うまくできただろうか。そう、そして時差ボケで湧き上がってきた怒りの気持ちや悲しみの気持ちをぶつける相手はもう、この今の世界には存在していないのである。それが非常に残念だ。だからそれらの気持ちをまた、自分の中に閉じ込めてうんとこしょ、どっこいしょと誤魔化して我慢し続ける必要があるのである。どうして私は、小学生の時に我慢の儀式をすればどんな気持ちも我慢できると勘違いしてしまったのだろうか。そんな事してもいつまでたってもその気持ちは消えないままで、ようはなにも我慢しきれてないままですくすくと大人になってしまったのである。悲しいことかな。

でもやはり一人になるということは、とても、とても、かなしいことである。

一人になってしまったらまず何をしでかすか自分でもわからないでコントロールできなくなってしまうから怖いのである。結局自分は誰からも必要とされていないゴミくず。容姿もダメ出し、才能もないし、勉強もできないし、努力もできないし、なんでも深く考えることができないし、忍耐もない。そんな自分は一体どこで必要とされるのだろうか。自分の気持ちさえもすらすらと相手に伝えられない人間なんか生きていたって仕方がない。そして言ったところで誰だって反応してくれない、理解してくれない、結局誰といたって私は世界で一人きりだったのだ。誤解されたくないのだが、もうそのことで私はあまり悩んでいないのだ。一つの悩みごとができると違うことも、それまた違うことも永遠と考えてしまうのだ。嫌なことがあるとすぐ寝る人が多いみたいだが、すぐ寝てしまうということは、もうこれ以上何も考えません、あなたと話す気はありませんという意思表示なのだろうか。別にかまわないが、こちらはぜんぜん寝ることができないのに。それとも私があほだから、相手はもうすでに答えをだしているけれど、私はもっともっと深く考えないとたどり着けない答えを相手は用意しているのかもしれない。それなら、私は相手を理解するために今夜も寝ずに考え続ければいいだけの話だ。簡単なこと。少々頭とおなかが痛むけれど、そうすることによって誰かが幸せになれるならそれでいいだろう。私がしんで、新たな命が芽生えるならそのほうがよっぽどこの世界にとって有益であること間違いなしである。私が生きていたってこの世界に悪影響しか与えないのだろう。そのことに関してはもう悲しくはない。事実であるから。イライラしたりもんもんとしてくるとなぜだか昔のイライラすることをいろいろと思い出す。そもそも、貧乏というのはいけないことだと思う。物質的に人を貧しくさせるなら全然許せるのだが、精神的に人を貧しくさせていうことはとても許しがたいことである。私が三着洋服を買ったら(2500円相当)ママが怒って「よくそんなお金でてきたわね!しかもそんないやらしい服!!服、買い過ぎじゃない?そんなに買って、家のことも考えてよね!!ママなんか一年も髪の毛切ってないんだからね!!!!!」と怒鳴られたので、私のお年玉から2000円お母さんにあげたら、「もう!!!!もっとみじめになるじゃない!!!!!」とさらに怒鳴られたことをおこられた。あと、多分私が振袖を着ないようにと言ってきたのは嫉妬しているからではないかと思う。お母さんが成人のときは、おばあちゃんが作ったワンピースを着て出席したそうだ。だから、娘のあんたが振袖お着るなんて許せない!!!!!!という気持ちからそう言い出したのだろう。私は別に全然かまわなかったのだが、なぜなら、あんな派手な服を着て、普段ブスでデブのくせにしゃしゃってるんじゃねーよしねしねと思われるくらいならスーツで行ったほうがましである。それに加えてウェディングドレスも着たくない。あんなかわいくない私に似合わない真っ白しろしろな服をきて、ふふふ、私幸せなんです~それはここにいる皆さんのおかげですありがとうございますふふふ~お祝いしてね~なんて恥さらしはしたくないからである。それにお母さんは嫉妬しなくてすむだろう。もう絶望的になにも持ち合わせていない私はこれからどうやって生きていけばいいのだろう。いや、これから生きていく価値はあるのだろうか。それならいっそ誰かのために死んだほうがいいのかもしれない。この気持ちを誰かに伝えたいけれど伝えるべき相手がわからない。そんな事言えば、頭がおかしいのねメンヘラなのね、しねって言われるだけだ。誰もちゃんと相手なんてしてくれない。だって誰もが私より優れているんだから、私なんかの相手をしていても仕方がない時間の無駄だ。考えながら話す人は本当にすごいと思う。私は話しているその時は適当に相槌をうつけれど、家に帰ってひっかかったことについて考えなおして、直して、なおして、やっとああああ!!私はこう思うんだけど!という自分の意見が明確にわかるのだがその時はすでに時遅く誰にも伝えることができずに自分の中にたまっていくのである。もうそいうう会話を続けることもしんどくなってきた。どうせいつでも私の意見は私の中で終わっていくのだ。そんな気持ち悪い自己満足女は早くしんでしまったほうがいいかもしれない。

自分の気持ちを言葉にすることはいいこといいこと。

寝れる気がしてきた。

 

こういう文章をどこかに挙げることによって自分を肯定しようとしている時点でもう自分は終わっている。自己満足オナニー野郎。