てんしの自由帳。

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子どもになれないオトナ 。

 

子どもは一体、いつからオトナになれるのだろうか。私は、オトナの指示通りに働き、勉強に励めば、オトナのように賢くなれるのだと思っていた。オトナになれば、政治のこと、テレビのニュースの内容、世界中で起きている戦争のこと、愛と平和、明日の天気など手に取るようにわかるのだと思っていた。オトナはかっこいい、それは子どの私にとって、疑う余地もない事実であった。しかし、私がそのオトナに近づくにつれて、わかったことがある。それは、オトナも子どももたいして差がないということである。また、オトナだって完ぺきでないところばかりであるし、決まりの悪いことはこっそり、そのへんにポイ捨てしている。そんなオトナに近づいていくならば、子どものままでいい、そう思ったのはいつからだろうか。確かに、現代社会を上手に生きていくためには、合理的で効率的、偉い人に従って反復すれば良いのかもしれない。そのために、敷かれた「発達」というレールの上で、課題をクリアし、子どもたちの感じられるすべてを排除し、個性をむしり取れば良いのかもしれない。そして、労働の成果のために生涯を捧げれば、社会的には認められた存在になれるのかもしれない。しかし、本当にそれでよいのだろうか。だから、表現力が乏しい子どもが増えたように見えるのではないだろうか。子どもたちは決まりきったレールの上で、自分の内からなる衝動によって突き動かされた経験ができたのだろうか。それを表現しようとしたときに、オトナはどのような反応をしたのだろうか。意味不明なことだと見なして、その気持ちを無視してしまったことはないだろうか。子どもたちが安心して自分の感じたことを伝えることができる環境がそこにはあったのだろうか。今、子どもたちは家庭で「いい子」であることが望まれている。そのため、自分の気持ちを犠牲にして、「いい子」を演じ続けるのである。「いい子」であれば、順調に発達課題もクリアできているようにみえるであろう。またそこで少しでも外れていれば、発達障害を疑われることも珍しくない。そのため、子どもは大好きな両親を悲しませないように、子ども時代を犠牲にして「いい子」を演じる。しかし、ある時、子どもたちは自分の気持ちを偽り続けることに対して限界を感じるが、その事実に気づいた子どもたちのほとんどがもうオトナの領域に両足を踏み入れてしまおうとしているのである。

最近の若者は子どものままオトナになっている。その原因を子ども時代を経験していない若者に負わせることは酷なことではないだろうか。今一度、オトナと子どもの関係について考える必要があると思った。