てんしの自由帳。

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お気に入り 。

 

ウォークマンをいじる私の手がお気に入りのプレイリストをとりあえず再生する。と、いっても、これは私のお気に入りの曲ではない。それでも、私のウォークマンの液晶画面に映された言葉は“お気に入り”であった。ぐりぐりとお気に入りのプレイリストから最近で一番のお気に入りの曲を探す。音楽を聴きながらどこかへ出かけようとする人たちは、必ずといっていいほど一歩踏み出すための一曲を探すことに、とてつもない時間をかける。

それが、今すぐ出かけなければ遅刻になってしまいそうな場面であっても、その場所や、時間、感情にあわせて、ぐりぐりと一番聞きたい曲を探すのである。私は時間を確認した。どれだけ激しく自転車のペダルを踏んでも待ち合わせ時間には間に合わないことがわかった。ふっと日差しに照らされていることに気が付いた。そのことから、私がさっきまで感じていた焦りは徐々に諦めにかわっていった。またプレイリストに目を通すが、どこをどう探しても私が好きなお気に入りの曲は見つからなかった。まあ、仕方ないかと私は小さい声でつぶやいた。そよそよと風が木々を揺らした。遮断されていた世界との交流だ。そして私がたった今まで持っていた執着心は徐々に諦めにかわっていった。待ち合わせ時間からはもう三分も経過していた。ちょっと、遅れます。と、私はぽちぽちと液晶画面に言葉を映し出しお気に入りの彼に送信した。それから、思い出したかのように呼吸をする。今日、初めての呼吸だ。五月の日差しはとてもまぶしくて、薄い長袖の布を通り抜け私の腕に直接突き刺さるようだった。そこから汗がじわりとにじんできた。意識すればするほど、私は太陽の光に包まれているという事実が心地よく、ひかりの中に絡まっていった。今日という空気を吸った私は、ようやく自転車のペダルを踏み始めた。待ち合わせ時間からはちょうど五分過ぎていた。ゆっくりとハンドルを握りしめた。自転車をこぐとき、どうしてか、いろいろなことを考えてしまう。耳だけは、聞こえてくる音の刺激は明らかに私が好む音ではないことが分かっていた。どうして、私はお気に入りのプレイリストから数分かけてこの曲を選んだのか理由があやふやになってきていた。それでも、ひとつだけわかることは、彼が、この曲をとっても気に入っていたということである。待ち合わせ場所の駅までは、あと五分ほどかかりそうだった。途中で通りかかった小学校からは授業のはじまり、それとも終わりだろうか、それを告げるチャイムの音が響き渡った。その音はすっと私の体の中に澄み渡っていくようだった。それでも耳からはどこか遠い国の音楽がシャカシャカと刺激する。違和感と心地よさに身を預けながら、12分遅れで、私は待ち合わせ場所に到着した。しかし、そこに彼の姿は見当たらなかった。私は、着きました、と言葉を送信するより前に、ウォークマンをとりだした。私のお気に入りのプレイリストから、この場所や、時間、感情に合わせて、すらすらと一番聞きたい曲を探した。太陽の光はさらに濃くなり、私に強く絡まった。心地のいい天気、お気に入りの音楽。私は、彼が到着するまでの三十分間、コンビニで新商品のカフェラテを買って過ごすことにした。